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[コラム] 神の御心を探る祈祷した後、自らの事情に関する祈祷をしよう

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每日宗敎新聞 日本語版 (記事入力:2015/06/04[19:47])から紹介します。

 

神と人間

神の御心を探る祈祷した後、自らの事情に関する祈祷をしよう

全羅南道・莞島(ワンド)で乾物仲介商をする私の親戚は、プロテスタント教会の篤信な勧士(長老の女性格)です。ところで、昨年「もう教会を離れなければならない」と宣言しました。理由は次のようでした。これまで教会へ熱心に通いながら神に忠誠を尽くしたが、神が自分の祈祷を聞き入れてくれなかったそうです。

息子がホテルの器物を壊して従業員に暴行を加え、警察署に拘禁されました。それなりの理由がありました。親戚は、神に対して息子が拘束されないようにしてくれと切実に祈りました。ところが、その祈祷の内容はついに成就されませんでした。親戚は、とても腹が立ちました。「神様が私に対して、どうしてこういう仕打ちが出来るのか?」と言って、神に対する怒りで心が一杯になりました。

「この世で信じることが出来る方は、神様しか存在しない」と、神に全てを任せて生きて来た方がこういう話をする時の、その心情はどれほど大変だったでしょうか? 失望と怒りで憎悪心が極度に達していたでしょう。神を信じても何の意味が無いと思ったことでしょう。一つの布団で一緒に寝て暮らして来た夫婦が別れる時の心情が、このようなものであろうかと思いました。

人間は人間の力ではどうにも出来ない災難が起こったり、不幸な出来事が発生すると、当然として「神は薄情だ」、「神が恨めしい」という話をよくします。不幸の原因を神のせいにします。そして、神に不幸を幸福に変えてくれと哀願します。神は人間を保護してあげて、人間に福を与える方であると信じているからです。大部分の宗教が、そのように信徒を教育して来たと思います。

ところが、自分の願いが成就されなければ、「神は無慈悲な方だ」、「神はいない」と、神を恨んでは神を愚弄します。神は栄光を受けて生きていながら、私の苦痛を無視するという考えのためです。私も、かつては神をとても多く恨みました。

まずは、神の心情と事情を考えてみなければ

意外にも神を恨む人間は無神論者よりも有神論者が多く、恨みの程度もはるかに強いようです。神を信じない人間は何か良くないことが起きても、大部分は先祖のせいにしたり、自分のせいにして、神に哀願する祈祷をしません。宗教を信じる人は熱心に教会や寺に通いながら平和と博愛精神を学ぶものの、その内面を覗いて見れば、自身と家族の安寧と幸福を祈る御利益的な感情が大きく占めていることが分かります。御利益信仰は、信仰対象との関係よりは自身の利益を求めるのが目的です。厳密に問い詰めると、御利益信仰は宗教の教えではありません。

自然科学書籍の中で人類の世界観に最も大きい影響を及ぼした本、《種の起源》を書いて「キリスト教の神を自然法則の神」として代替させたダーウィンも、キリスト教徒でした。ダーウィン主義は、ナチズムと共産主義と無神論に油を注いで火を付けた結果を生みました。共産主義者、独裁者、無神論者は、徹底した科学的唯物論者です。神を信じたダーウィンが神を否定するにあたって、一番の貢献者になったのです。

キリスト教徒の中には自身と家族に不幸な出来事が起きる時、神に成就して欲しいと祈祷しても結果が出なければ、神を恨んで信仰を捨てる人間もいます。「病気を治して下さい」、「お金がよく儲けるようにして下さい」、「子供の将来がうまくいくようにして下さい」、「これをして下さい、あれをして下さい」と駄々をこねながら、神を自分の僕として働かせようとする人は、いつでも神を恨んでは排斥する可能性が潜在している人です。神ほどに可哀想な方はいないようです。人間は神を単純に天空に存在する神と規定して、人間が自分勝手な思いで神に接し、人間が自分の都合通りに利用出来る存在だと思っています。

イエスに対しては救いを受けようと思って信じ、神は願いを叶えてくれる存在として信じる人は、神の僕でなく、神を僕としてこき使う罪人です。その性根が強欲者と乞食と、どこが違うのでしょうか? 両親は子供が幼い時にはせがまれるままにやってあげて育てますが、大人になってもせがまれれば、苦痛です。

人間は神は思った通りに何でもなれるし、作ろうと思ったら、その通りに作ることの出来る、そのような神として思っているようです。神自身も、神が自然法則を定めてたので、それに従わない訳にはいかない方だと思います。悪も強制的に防ぐ事も出来ず、殺すことも出来なくて、努力しないで得ようとする事に対しても、どうしようにも出来ない方が神ではないかと思います。神は人間と万物を創造した父母であり、宇宙を主宰する方であるからです。

神の心情・事情に思いを馳せる信仰が成熟した信仰

何が良くないことが起こったり、上手くいかなければ、その原因を探して正そうと努力する考えを持たないで、神を恨んでは神に何々をしてくれとすがりながら神を困らせるのは、人間としての正しい行動ではないでしょう。宇宙の数ある惑星の一つである地球が、人間が安らかに生きられるように安全に運行されている事が、太陽と雨と空気が地球上の全ての生命体に生命力を与えている事が、この世が悪の世の中にならない事が、動植物の生命が永続する事が、偶然にあるいは自然にそのようになりますか? 生命の力を与えてくれる生命の根本原因者がいるからでしょう。人間の目には見えない、創造主なる神の力によってでしょう。神はこのように人間のために苦労しながら努力をしているのに、神におねだりをして手を広げて待っているばかりであれば、神はどんなにか、もどかし思いでいらっしゃる事でしょうか?

自身の能力の限界まで熱心に努力して得た代価によって、自身の分際に相応しい生き方をするのが自然の法則に順応した人生でしょう。地球上に存在する生命体の中で、自ら生きない生命体がどこにありますか? 人間が全員大統領になれば誰が市長になり、誰が級長になり、農作物は誰が作って、清掃は誰がしますか? 太陽と月と星がなぜ異なり、動物はなぜ様々な種類があり、植物も色々な物があるのでしょうか? なぜ、このように複雑なのでしょうか? 私は調和を作り出すためだと思います。

神が人間を「御自分にかたどって人を創造された」という聖書の言葉は、「神のように自尊者たれ」という意味で語った言葉という気がします。人間が自ら努力して得た代価によって食べて善良に暮らせば、自尊する人間です。自尊者になろうとすれば、自由が与えられなければなりません。正しい事と正しくない事、しなければならない事としてはいけない事を、自ら判断出来なければなりません。神が人間に頼まれるままにしてあげて、ああだ、こうだと干渉すれば、人間は神の使いの者に過ぎません。

孝行息子・孝行娘は親の事情を知って親が喜ぶ生活を送り、親の心の中にいる子供です。親の事情を考えないで親に対してせがむだけの子供は、心配の対象です。神を安らかに迎えようという考えをするのが、子供である人間の道理でしょう。

神の懐の中で抱かれようとせず、自分の願いだけを成就してくれと祈祷する人は、子供のような人であり、神を利用して神をこき使おうとする人となります。こういう人は、神がしようと思っている事と神が自分に願われる事が何であるかを、知ろうともしません。

宗教人が真に神を信じて神を愛する人ならば、自分の事情よりも神の事情と御心を知ろうと努力しなければならず、神の御心を探る祈祷した後に自らの事情について祈祷するのが、神の子供としての正しい心掛けはないかと思います。(毎日宗教新聞 会長)

(翻訳:石橋健一 東京特派員)

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