なぜか関心を持たれなかった世界基督教統一神霊協会の看板を掲げた北鶴洞の場所が明らかに


調布教会ホームページが連載を続けている「Google Mapで訪ねる主の路程」では、「平和を愛する世界人として」(文鮮明自叙伝)に登場してくる文先生の歩まれたゆかりの場所を紹介しています。
連載第21回は世界基督教統一神霊協会の看板を掲げた北鶴洞(プカクドン)の地です。統一教会の歴史で教会創立というきわめて重要な場所でありながら、なぜか関心外だったこの場所、調べていくと新堂洞(シンダンドン)の一角であることがわかってきました。複数の個人による合同研究の内容です。

以下、同記事から引用して紹介します。


第21回-世界基督教統一神霊協会の看板を掲げた北鶴洞(プカクドン)の地(1954年5月~1955年1月)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、死の道を何度も越えて行かれた文先生の苦難の歩みと、「平和を愛する世界人として」(文鮮明自叙伝)に登場するそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第21回は、世界基督教統一神霊協会の看板を最初に掲げたソウル・北鶴洞の地(1954年5月~1955年1月)です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者個人が独自に調べた情報と、ソウル在住のY.S氏の全面的な調査協力をもとに、複数の個人による合同研究として公表するものです。統一教会本部および韓国歴史編纂本部の公式見解ではありません。どこまでも個人レベルでの調査のため、確証と裏付けがすべて得られているとは限らないことをご了承ください。あくまで参考情報としてご覧になってください。
なお、この調査結果をもとに、教会本部や関係する部署に質問・意見を寄せることはおやめください。また、付近は民有地・個人営業の商店が連なっている場所ですので、現地を訪れて聞き回ることは迷惑行為につながります。絶対におやめください。記事本来の趣旨は、「平和を愛する世界人として」(文鮮明自叙伝)に登場するゆかりの場所を“バーチャル”で訪ね、読後の思いを深めることにあります。記事本来の趣旨をご理解くださるようお願いします。

1954年5月世界基督教統一神霊協会を掲げた木造家屋 教会創立の翌々日に当時の教会員で撮った写真
▲1954年5月1日 世界基督教統一神霊協会を掲げた木造家屋(左)
/教会創立の翌々日に当時の教会員で撮った写真(右)

教会での礼拝後に挨拶を交わす劉孝元教会長 1954年冬 教会前で写真を撮る2人の女性
▲1954年冬 教会での礼拝後に挨拶を交わす劉孝元教会長(左)
/1954年冬 教会前で写真を撮る2人の女性(右)

世界基督教統一神霊協会の看板を掲げた北鶴洞の地
〔現在は道路と民有地〕(ソウル特別市中区新堂洞391番地付近)

世界基督教統一神霊協会の看板を最初に掲げた「ソウル特別市城東区北鶴洞391番地」
ここではリンクされた Google Map の情報ではなくキャプチャ画像を貼り付けてあります。
▲世界基督教統一神霊協会の看板を最初に掲げた「ソウル特別市城東区北鶴洞391番地」
の地は、現在のソウル特別市中区新堂洞391番地付近と想定されるものの、
都市計画道路の拡幅がされたため、教会のあった敷地は現在の道路部分と考えられる。

なぜか関心を持たれなかった北鶴洞(プカクドン)の場所、今は新堂洞(シンダンドン)に

1954年5月、世界基督教統一神霊協会の看板を最初に掲げた教会創立時の住所は、「生涯路程」「統一教の足跡」などの教会史史料より次のように記録されています。その後、教会本部は1955年1月に中区興仁洞(フンインドン)に引っ越します。調べていくと、ソウル特別市の行政上の変遷があり、洞名(町名)の変更があった(厳密には洞名の使用がとりやめられた)ことと、区割りの変更があったことがわかりました。その変更を追っていくと、現在では下記の住所に該当することがわかりました。

●「ソウル特別市城東区北鶴洞(プカクドン)391番地」
 (「生涯路程」では“北学洞”になっているが同音異義語の誤記と思われる)
           ↓
●「ソウル特別市中区新堂洞(シンダンドン)391番地付近」

※調査の段階ではこれとは別の意見もありました。そちらは確証がとれていませんので、まだ発表できません。明らかになれば後日公表いたします。

これまでなぜか関心を持たれなかった北鶴洞(プカクドン)の場所ですが、調査によると、この地域では都市計画道路として、公共道路の拡幅事業が1978年に行われました。その結果、教会のあった場所は、半分が道路に接収されて道路となり、敷地としてはほぼ半分になって残っていることが、わかってきました。

もともと、この地域は、戦前は新堂町、解放後は新堂洞(シンダンドン)でした。ソウルの行政制度と現地の事情を調査したY.S氏によると、韓国における洞は、同じ場所でありながら、法定洞と行政洞に分かれて呼ばれることがあること、新堂洞は法定洞で、北鶴洞(プカクドン)は行政洞であることがわかりました。そのため、一時期、同じ地域に新堂洞と北鶴洞が同居していました。世界基督教統一神霊協会の看板を掲げたのは、ちょうどその時期に該当していたというわけです。

当時、行政を管轄するための洞会制度として行政洞ができ、行政の管轄が北鶴洞会になっていたために、教会の住所は北鶴洞と表記され、「北鶴洞教会」とも呼ばれたり、“3つの戸”があることから「セデムン教会」とも呼ばれたりしていました。

住所としての表記は法定洞でも行政洞でもどちらも使えますが、戸籍や不動産権利書のような法的なものには、必ず法定洞の住所を書く必要があるということです。そのためか、1954年冬に教会前で撮影された女性が二人写っている写真では、隣の行政書士の看板には「城東区新堂洞(シンダンドン)391-14」の住所が写っています(下の拡大写真を参照のこと)。行政書士だからこそ法定洞の住所を書いていたものと推測されます。

一方、ソウル市の行政史では、区割り変更があり、1975年10月に新堂洞が「城東区」から「中区」へ編入されていることが確認できています。

ちなみに、「391番地」の番地表記は、日本でも明治時代から使われている土地の戸籍を表す“地番”と同等のものであり、「ー6」や「ー14」は枝番に該当します。枝番は土地の分割などによって増えたり、逆に一つにまとめることで減ったりします。

なお、地名の由来ですが、北鶴洞は、舞鶴峰(ムハクポン)の北側にあることからつけられたものです。舞鶴峰は、鶴が舞い上がる(舞い踊る)という意味で、無學大師が朝鮮の首都である漢陽(ソウル)の場所を、この山に登って定めたとも言われています。

一方、新堂洞は、もともと巫女などの神堂がたくさんあったことからつけられた地名です。後に「神堂」は「新堂」に変えられています。かつて漢陽から城外に出る門がこの地域にありましたが、主に死人を運ぶ門として使用されていたために、墓が多くなり、自然にそれを祀る巫女などの神堂が増えたのだと言われます。

1941年「纛島 京畿道楊州郡 高陽郡 廣州郡 京城府」地図より
▲1941年 陸軍参謀本部陸地測量部発行「纛島 京畿道楊州郡 高陽郡 廣州郡 京城府」地図
新堂町付近をトリミングしたところ。(日本・国立国会図書館蔵)

1946年 米陸軍発行ソウル市の地図より 「城東区新堂洞三九一」を掲げた行政書士の看板
▲1946年 米陸軍発行ソウル市の地図より
出所:Korea City Plans – U.S. Army Map Service(左)/
法定洞の住所である「城東区新堂洞三九一」を掲げた行政書士の看板(右)

1927年、1930年、1958年、1974年の同所の地図
▲左から1927年、1930年、1958年、1974年の同所の地図。1958年は奨忠壇
小学校が間違えて描かれている。右端の1974年地図では道路拡幅前の土地の
状況がよくわかる。(韓国・国立国会図書館蔵)

ストリートビューで見た付近のようす
▲ストリートビューで見た付近のようす。民有地であり商店が連なっている
場所ですので現地を訪れて尋ねたりすることは絶対におやめください。


ここでは記事の一部を割愛し、地図画像の拡大表示や、リンクされた Google Map の情報も省略しました。実際にリンクされた Google Map の情報を見たり、ここで引用した地図や画像の拡大表示をさせたり、あるいは引用した自叙伝や「生涯路程」の記述など、さらにくわしくご覧になりたい方は、次をアクセスしてください。

第21回-世界基督教統一神霊協会の看板を掲げた北鶴洞(プカクドン)の地

 
 




coded by nessus
Posted by on 2013年7月16日. Filed under トピックス. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0. You can leave a response or trackback to this entry

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