文先生たちが平壌から南下し臨津江を渡った日時が朝鮮戦争の米軍地図史料から裏付けられた


調布教会ホームページが連載を続けている「Google Mapで訪ねる主の路程」では、「平和を愛する世界人として」(文鮮明自叙伝)に登場してくる文先生の歩まれたゆかりの場所を紹介しています。

文鮮明先生は、1950年10月に韓国軍・国連軍の手によって興南収容所から解放されます。平壌で信徒たちを探し出した後、中国人民義勇軍の参戦によって国連軍が退く1950年12月4日夜、平壌を脱出、2人の弟子を連れて南下します。さらに12月21日早朝、臨津江(イムジンガン)を封鎖される直前に渡りますが、そのときに文鮮明先生は将来、平和的に南北統一を果たすことを祈ります。
このほどアップされた第18回-国連軍・韓国軍の撤退と平壌から南下/臨津江での祈祷では、国連軍の中核である米軍が記録した朝鮮戦争の記録や地図史料を引用し、翌5日には平壌市街の南端に防衛ラインが下がっていて、文先生たちの平壌からの避難は、まさにぎりぎりだったことを裏付ける資料として紹介しています。さらに、臨津江を渡った翌々日の12月23日には、臨津江の南岸に沿って防衛ラインが下がっており、こちらも自叙伝の記述を裏付ける形になっています。

韓半島情勢を巡る動きが激しくなっていますが、このときの文鮮明先生の行動や祈りの内容が、南北統一をめざす原点として、今まさに必要なことだと認識を新たにしてくれます。

以下、同記事から引用して紹介します。


Google Mapで訪ねる主の路程(18)-国連軍・韓国軍の撤退と平壌から南下/臨津江での祈祷

第18回-国連軍・韓国軍の撤退と平壌から南下/臨津江での祈祷(1950年12月)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、「七死復活八段完成」であった文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第18回は、国連軍・韓国軍の撤退と平壌から南下/臨津江での祈祷(1950年12月)です。中国人民義勇軍の参戦によって、国連軍・韓国軍は撤退を余儀なくされ、文鮮明先生も二人のお弟子さんを連れ、平壌から避難、南下します。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ推測したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また統一教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

1950年11月 平壌を防衛する国連軍 平壌から南下する文先生一行
1950年11月 平壌を防衛する国連軍/平壌から南下する文先生一行(江東教会ブログより)

1950年末 大邱地方を行く避難する人たち 北から南に避難する人たちと警備をする国連軍兵士
1950年暮れ大邱地方を行く避難する人たち/北から避難する人たちと警備する国連軍兵士

平壌と景昌里(キョンチャンリ)の位置と大同江(テドンガン)

GoogleMapで見た平壌と景昌里の位置と大同江
ここでは Google Map のリンク情報ではなくキャプチャ画像を貼り付けてあります。

▲『統一教の足跡Ⅰ』には、平壌から避難を始めた12月4日夜、文鮮明先生と金元弼氏、さらに足の骨が
折れて歩けないために自転車に乗せられた朴正華氏ら三人が、舟で大同江を渡ったことがふれられている。
Map上では、文鮮明先生が興南へ収容される前に活動の拠点としていた景昌里の位置をマーキングした。

米陸軍第8軍の撤退地図
▲国連軍の中核である米陸軍第8軍の防衛ライン撤退を表す地図
    (出所:www.koreanwar.orgのKorean War Mapsより)

米陸軍第8軍の防衛ライン撤退を表す地図を見ると、12月3日には平壌の市街地の北端にあった防衛ラインが、同5日には大同江を越えて市街地の南端に下がっています。文先生たちの4日夜の避難は、自叙伝や生涯路程の記述の通り、まさにぎりぎりだったことがわかります。
さらに暮れの迫った12月23日には、ソウルの北方、臨津江(イムジンガン)沿いまで防衛ラインが下がっていることが地図から見て取れます。

平壌から臨津江までの文鮮明先生一行の避難ルート
▲平壌から臨津江までの文鮮明先生一行の避難ルート(出所:『真の父母様の生涯路程2』)

龍媒島と干潟の道

WikiMapiaで見た龍媒島と青丹邑
▲龍媒島と青丹邑との位置関係をWikiMapiaで見たところ。

生涯路程には、龍媒島への干潟の道を歩いたことが記されています。しかし龍媒島で船に乗ることができず、来た道を戻るしかなかった徒労感はどれほどだったでしょうか。しかも北方から中国人民義勇軍、北朝鮮軍がじりじりと迫ってきている状況です。

臨津江(イムジンガン)と自由の橋

GoogleMapで見た臨津江と自由の橋
ここでは Google Map のリンク情報ではなくキャプチャ画像を貼り付けてあります。

▲もともと鉄道用の橋で上り下りで二つあった橋だが、朝鮮戦争の爆撃で
一方の橋は破壊された。橋の名前の由来は自由の橋-Wikipediaを参照。

Google Earthで見た臨津江と黄色で表示されている休戦ライン
▲Google Earthで見た臨津江と黄色で表示されている休戦ライン

通行を遮断される寸前で文鮮明先生一行が臨津江を渡り終えたのは、12月21日の早朝でした。このことを裏付けるように、12月23日には、臨津江に沿って防衛ラインが下がっていることが上記の米陸軍第8軍の撤退地図からは、見て取れます。
文先生が渡り終えたとき、北に向かって「自由世界の力を集めて必ず北朝鮮を解放し、南北を統一します」と祈られた内容は、いつになったら実現できるでしょうか。

1953年時点での臨津江付近の地図
▲休戦を迎えた1953年時点での臨津江(イムジンガン)付近の地図。橋は「FREEDOM」と
表示されている。上方から左下まで帯のように広がるのが休戦ライン。
    (出所:www.koreanwar.orgのKorean War Mapsより)


ここでは記事の一部を割愛し、地図画像の拡大表示や、Google Map のリンク情報も省略しました。実際に Google Map のリンク情報を見たり、ここで引用した地図や画像の拡大表示をさせたり、あるいは引用した自叙伝や「生涯路程」の記述など、さらにくわしくご覧になりたい方は、次をアクセスしてください。

第18回-国連軍・韓国軍の撤退と平壌から南下/臨津江での祈祷
 
 




coded by nessus
Posted by on 2013年4月11日. Filed under トピックス. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0. You can leave a response or trackback to this entry

Leave a Response

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*