共産軍政下で捕らえられた平壌内務署と判決を受けた法廷、興南監獄移送前の平壌刑務所の場所が明らかに


調布教会ホームページが連載を続けている「Google Mapで訪ねる主の路程」では、「平和を愛する世界人として」(文鮮明自叙伝)に登場してくる文先生の歩まれたゆかりの場所を紹介しています。

このほどアップされた第15回-平壌内務署逮捕と平壌刑務所への収監では、1948年2月に文鮮明先生が捕らえられた平壌内務署と、同年4月に判決を受けた法廷、興南監獄へ移送される前の同年4月から5月の間、収監された平壌刑務所の場所を明らかにしています。以下、同記事から引用して紹介します。


Google Mapで訪ねる主の路程(15)-平壌内務署逮捕と平壌刑務所への収監

第15回-平壌内務署逮捕(1948年2月)と平壌刑務所への収監(同4月~5月)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、「七死復活八段完成」であった文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第15回は、平壌内務署逮捕(1948年2月)と平壌刑務所への収監(1948年4月~5月)です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ推測したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また統一教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

日本統治時代の平壌覆審法院・地方法院
文先生が平壌刑務所へ収監される前、判決を下された法廷として
使われた日本統治時代の平壌覆審法院・地方法院(裁判所)

A.平壌内務署跡(現・平壌直轄市外城洞 現在の用途は人民保安部事務局?)
B.平壌覆審法院・地方法院(裁判所)跡(現・平壌直轄市蓮花洞 現在の用途は不明)

平壌内務署跡と法廷として使われた平壌覆審法院・地方法院跡
ここではリンクされた Google Map の情報ではなくキャプチャ画像を貼り付けてあります。

1914年当時の憲兵隊警務部と平壌覆審法院 1919年当時の憲兵隊警務部と平壌覆審法院
(左)1914年の平壌地図より憲兵隊警務部と平壌覆審法院・地方法院
/(右)1919年の平壌地図より憲兵隊警務部と平壌覆審法院・地方法院

1939年当時の憲兵隊警務部と平壌覆審法院・地方法院 1942年の朝鮮総督府名簿に記載されている平壌覆審法院・地方法院
(左)1939年の平壌地図より憲兵隊警務部と平壌覆審法院・地方法院
(右)1942年の朝鮮総督府名簿に記載されている平壌覆審法院・地方法院

1946年米陸軍作成地図より
1946年米陸軍作成地図より”Military Police [軍警察・秘密警察]”と
“Court [法廷]”

WikiMapiaで見た平壌内務署のあった場所
平壌内務署のあった場所をWikiMapiaで見たところ。”Office”のマーキングがされている。
一方、”Court [法廷]”のあった場所は、WikiMapiaでは特にマーキングはない。

「平壌内務署」は”Military Police”=元「憲兵隊警務部」の場所であり、
法廷は”Court”=元「平壌覆審法院」の場所だった

平壌・景昌里(キョンチャンリ)での伝道活動を再開された文先生は1948年2月、今度は「平壌内務署」によって逮捕されます。前回は大同保安署(大同警察署の後身)による逮捕でしたが、管轄エリアが違うだけの平壌保安署でもありません。平壌内務署とはどういう部署だったのでしょうか。

前回、解放後から軍政下の時にかけ、日本統治時代の施設や設備をそのままの目的で使用し、警察署は保安署に、覆審法院(裁判所)は法廷に、刑務所(監獄)はそのまま刑務所に、と使われていたと述べました。
1948年2月は、ソビエト連邦軍政下のもとで、共産党が北の支配をほぼ固め終えつつあった段階でした。やがて同年9月には、朝鮮民主主義人民共和国の建国が宣言されます。
当時の「内務署」とは、歴史史料では明確にされていませんが、内務省傘下で、政治保安局(秘密警察・軍警察)の部署だったと思われます。共産主義に敵対する人物を政治犯として捕まえたり、キリスト教を始めとする宗教関係者を思想犯として捕まえていた部署です。

それを元に、1946年米陸軍作成の地図で探してみると、平壌の中心部に”Military Police(軍警察・秘密警察)”と書かれている建物がありました。この場所は、それより前、日本統治下時代の地図では「憲兵隊警務部」(軍隊の警察)があった場所です。軍隊の警察である憲兵隊ですから、逮捕者を拘留・拘置する部屋や、取り調べを行ったり拷問を加える部屋が備わった施設だったはずです。ソビエト連邦軍政下の共産党も、そのまま政治犯・思想犯を捕まえる「内務署」として使ったと類推できます。

なお、1948年当時の政治保安局は、現在の北朝鮮内での組織上は、人民保安部になっています。1946年に”Military Police”とされた建物があった場所は、現在のWikiMapiaの地図上では、単に”Office”としてだけマーキングされています。人民保安部関係の事務局、と考えられなくもありませんが、今はそれ以上、確認できる術はありません。

平壌内務署に逮捕され、またも激しい拷問を受けられた文先生は、1948年4月、法廷で判決を受けます。その法廷は、日本統治下時代に「平壌覆審法院・平壌地方法院(裁判所)」として建てられ、使われていた場所です。1946年米陸軍作成の地図では、”Court(法廷)”として書かれています。きちんとした弁護人がいたかどうかもわからない、形だけの法廷での判決とはいえ、その目的は、監獄・強制収容所へ送りこむことであったことは明らかでしょう。

 

平壌刑務所跡(現・平壌直轄市解放山洞 現在は朝鮮労働党中央宣伝部などの党主要施設)

現在は朝鮮労働党主要施設が建ち並ぶ平壌刑務所跡
ここではリンクされた Google Map の情報ではなくキャプチャ画像を貼り付けてあります。

1914年の平壌地図に記載されている平壌監獄 1919年の平壌地図より平壌監獄
(左)1914年の平壌地図に記載されている平壌監獄
/(右)1919年の平壌地図に記載されている平壌監獄

1939年の平壌地図に記載されている平壌刑務所 1942年の朝鮮総督府名簿に記載されている平壌刑務所
(左)1939年の平壌地図に記載されている平壌刑務所
/(右)1942年の朝鮮総督府名簿に記載されている平壌刑務所

1946年の米陸軍発行地図より平壌刑務所
1946年の米陸軍発行地図に記載されている平壌刑務所

WikiMapiaで見た平壌刑務所のあった場所
平壌刑務所のあった場所をWikiMapiaで見たところ。現在は朝鮮労働党の主要施設が並ぶ

「平壌刑務所」も長く日本統治時代から使われていた場所だった

1948年4月に文先生が収監された平壌刑務所は、戦前の日本統治時代から、平壌監獄として長く使われ、その後、平壌刑務所として大きくなっていった場所です。1914年当時の地図から1946年まで時代を追っていくと、時代と共に、大きく拡張されていったことがよくわかります。

北朝鮮政権下で、平壌の町が大きくなっていくと、平壌刑務所のあった広い場所は、都市の中心部に飲み込まれることとなり、やがて郊外に移転したものと思われます。現在では、この場所に朝鮮労働党の主要施設が並んでいます。WikiMapiaでマーキングされているものを見ると、朝鮮労働党組織委員会、党中央宣伝部、党中央宣伝委員会、党歴史研究所、9号宴会場、党指導者邸宅などの党の主要施設が建ち並んでいることがわかります。

文先生はこの平壌刑務所で1か月半収監された後、強制労働を課せられる興南監獄に移送されていくことになります。

 


実際にリンクされた Google Map の情報や、ここで引用したそれぞれの地図を拡大表示したものなど、くわしくご覧になりたい方、また引用された自叙伝や「生涯路程」の記述などを確認してみたい方は、次をアクセスしてください。

Google Mapで訪ねる主の路程(15)-平壌内務署逮捕と平壌刑務所への収監




coded by nessus
Posted by on 2013年1月24日. Filed under トピックス. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0. You can leave a response or trackback to this entry

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