平壌の景昌里(キョンチャンリ)での集会所の位置は、なんと現在の万寿台議事堂の敷地内だった!


調布教会ホームページが連載を続けている「Google Mapで訪ねる主の路程」では、「平和を愛する世界人として」(文鮮明自叙伝)に登場してくる文先生の歩まれたゆかりの場所を紹介しています。

このほどアップされた「第13回-平壌での活動と景昌里(キョンチャンリ)集会所」では、文先生が38度線を越えて北に入り、1946年6月頃から、文先生が平壌で伝道活動をしていた景昌里(キョンチャンリ)の集会所のあった位置を明らかにしています。その場所は、実に驚きの場所でした。

以下、同記事から引用して紹介します。


Google Mapで訪ねる主の路程(13)-平壌での活動と景昌里(キョンチャンリ)集会所〔前編〕
第13回前編-平壌での活動と景昌里(キョンチャンリ)集会所(1946年6月~)

「Google Mapで訪ねる主の路程」は、文鮮明先生がお生まれになり歩まれた場所や、「七死復活八段完成」であった文先生の苦難の歩みとそのゆかりの地をGoogle Mapで訪ねるコーナーです。第13回は、平壌での活動と景昌里(キョンチャンリ)集会所(1946年6月~48年2月)です。

〈お断り〉ここで紹介する内容は、Web担当者が独自に調べ推測したものであり、すべて確証が得られているとは限りません。また統一教会本部の公式見解でもありません。あくまで参考情報としてご覧になってください。より正確な情報や確実な情報をご存じの方はご一報ください。

1890年代景昌里から大同門を眺めた景色 1940年代の平壌市街
(左)1890年代景昌里の高台から大同門を眺めた景色と推測できる写真
/1940年代の平壌市街 景昌里は前方の左手方向(右)

現在の普通門- by mar21 1890年代の普通門
現在の普通門(西門)- by mar21/景昌里にほど近い普通門1890年代

平壌の景昌里(キョンチャンリ)集会所 跡(現・平壌直轄市万寿洞 万寿台議事堂の敷地)

景昌里の集会所跡は万寿台議事堂の敷地
ここではリンクされた Google Map の情報ではなく、
キャプチャ画像を貼り付けてあります。

大胆推理! 平壌の景昌里(キョンチャンリ)での集会所の位置は
なんと現在の万寿台議事堂の敷地内だった!

万寿台議事堂- by mar21

1946年6月頃から、文先生が平壌で伝道活動をしていた「景昌里(キョンチャンリ)」は、自叙伝にも「生涯路程」にも登場します。景昌里(キョンチャンリ)はいったい平壌のどのあたりだったのか。今はどうなっているのかを日本統治時代の地図や、各種資料、自叙伝での証言、文先生が逮捕される大同保安署の位置を元にしながら、調べていきました。

その結果、景昌里(キョンチャンリ)の集会所に使っていた家の位置が、現在の万寿台(マンスデ)議事堂の敷地であるとの結論に至りました。自叙伝には、羅最燮(ナチェソプ)氏の家で伝道活動を始めた話が出ています。また、その家が手狭になったため、鄭明善氏(章台山見〔チャデヒョン〕教会の執事だった金ジョンファ氏の夫)の家を集会の場所に移したと、当時からの信徒であった金仁珠女史が話した記録があります。どちらも景昌里であり、至近距離であったことが想像でき、現在の広い万寿台議事堂の敷地内にあると考えます。

実は、万寿台議事堂と言えば、自叙伝の後半部272ページに登場します。それは1991年12月、金日成主席に会う前、北朝鮮の党幹部・要人を前に、文先生が「銃剣では南北の統一はできない」と2時間にわたって大演説をぶった場所です。1946年に景昌里の集会所で平壌の食口の前で熱く語っていたときから、実に45年後、再び同じ場所に立たれて共産主義者を相手に“説教”をされていたのです。これには、びっくりでした。

なお、ここでは、結論を先に出しましたが、その推論の内容については、第13回後編の「文先生が平壌で伝道活動をしていた景昌里集会所の場所が万寿台議事堂の敷地と考えた根拠」を参照してください。

 

1914年の平壌府地図
▲1914年『平壌府全図』-景昌里はうす黄色で塗り分けた地域
南北に長く東は丘の上の城壁を境とし西は南北に走る道までの場所、
北東に萬壽臺(万寿台)を控え西に普通門がある

1919年の平壌府地図
▲1919年『平壌府地図』-前の地図を元に景昌里をピンクで塗りつぶした
丘の上を南北に城壁がめぐらされているのがわかるほか、済衆院(医学所)や
耶蘇神学堂、女子聖経学堂などのキリスト教施設が確認できる

1946年米陸軍発行の平壌市地図
▲1946年米陸軍発行の平壌市地図
-北と東からの道路が拡幅され、この時代には景昌里と呼んでいた地域が南北に分かれている。
北側には小さな集落が残っているほか、南側はミッション系の崇義(スンギ/そうぎ)女学校、
神学校(theological seminary)、キリスト教病院、などが集まる文教地区である。
さらに西側には米国宣教師邸宅、聖書学校、ミッション系の崇実(すうじつ)女学校など確認できる。
赤い○印は、いずれかの家が、文先生が集会所として使われていたと推理できるエリア

WikiMapiaで見た現在のピョンヤン市街
▲WikiMapiaで旧・景昌里に該当する地域を見た現在のピョンヤン市街
万寿台議事堂を始め、朝鮮革命博物館、万寿台芸術劇場、ロシア大使館などの主要施設が建ち並ぶ
1946年地図で赤い○印をつけた場所は、見比べると万寿台議事堂の敷地内にあることがわかる。


実際にリンクされた Google Map での場所、ここで引用した地図の拡大表示や、地図を重ね合わせたムービー、さらにくわしい資料や推論の根拠などをご覧になりたい方は、次をアクセスしてください。

Google Mapで訪ねる主の路程(13)-平壌での活動と景昌里(キョンチャンリ)集会所〔前編〕
 「大胆推理! 平壌の景昌里(キョンチャンリ)での集会所の位置はなんと現在の万寿台議事堂の敷地内だった!」
Google Mapで訪ねる主の路程(13)-平壌での活動と景昌里(キョンチャンリ)集会所〔後編〕
 「文先生が平壌で伝道活動をしていた景昌里集会所の場所が万寿台議事堂の敷地と考えた根拠」
 
 




coded by nessus
Posted by on 2013年1月1日. Filed under トピックス. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0. You can leave a response or trackback to this entry

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