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ルターと福音主義 Part5

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キリスト教の教えに対する統一原理の見解サイトに新しい記事が掲載されていたのでご紹介します。

今回はドイツ人神学教授、そして宗教改革の創始者マルティン・ルター(Martin Luther, 1483.11.10 - 1546.2.18)の「ルターと福音主義」の連載第5回目です。

どうぞご覧下さい。

下記はサイトより一部引用です。

                  

Martin Luther1(六)「カトリックの反論」

 

ここで、プロテスタントに対するカトリック側からの反論について述べておかねばならない。

 

(1)「福音主義は粗野な主観主義にすぎない」

 

カトリック側は、ルターが「伝承(聖伝せいでん)」を否定し「聖書のみ」(聖書主義)を主張する〝福音主義〟は、「仮面をげば結局主観主義の粗野そやな哲学にすぎない」(『カトリックの信仰』、岩下壮一著、講談社学術文庫、645頁)と批判する。

 

つまり、宗教改革の当初からこの主観主義の混乱があり、自己の聖書解釈をもってカトリックの伝統に代え、己の個人的権威を法王とカトリックの教権とに替えたと批判するのである。

 

また、岩下壮一氏は「ローマ法王の権威にかえうるに幾多の小法王の権威をもってし、世界的大教会の教権のかわりに群小教会の教権を樹立する滑稽こっけいな立場に陥る事になる」(同、394頁)と批判する。そして、個人主義の行きつくところは、独裁専制であるというのである。

 

これに対して、カトリックは聖伝と教会法によって限定された言わば立憲的なものであると次のように述べている。

 

「プロテスタント教会の実状は……信者はやはり牧師のおしえる所に従い、長老は事実教会を統率とうそつしているのではあるまいか。しこうしてローマ法王の権威や世界的教会の教権は、外部より規定し得ざる個人の体験のごとき独断的なものではなく、聖伝と教会法によって明らかに限定された言わば立憲的なものであるに反し、小法王等の権威と群小教会の教権に至っては、全然暴君の独裁専制にまで堕落し得るものである。」(同、394-395頁)

 

「伝承(聖伝)」に関しては、原始教会内で最初の福音書の著述に先立って、既に使徒たちによって説かれていたものであると、次のごとく述べている。

「聖書だけを採用して、聖書の基礎となった聖伝を捨つるに至っては、最も滑稽こっけいである。

キリスト教の信仰が原始教会内における最初の著述に先立って既に説かれたのは、疑う余地もなき明白な事実で、新約聖書自身がそれを証している。福音書は使徒等のキリストの生涯と奇蹟きせきと教訓とについての説教の一部を書いたものに過ぎず、かつ、これ等の事蹟は、文字に書き表さるる以前に一定の解釈を附されていた。そうしてその解釈は使徒の権威によって真なるものとして教えられ、かつ、受容うけいれられていたことは、彼等の書簡がまた明らかに示している」(同、395頁)と。

 

例えば、「テサロニケ後書中にも『我等の福音』と言い、「兄弟等よ、毅然きぜんとして我等のあるいは談話、あるいは書簡によりて習いしつたえを守れ」(第2章14)と戒めているが、その福音と伝の内容に至っては、もちろん世の終りに関する僅少きんしょうの事のほか、この短き書簡には何事も物語られていない。聖伝を認めずして、いかにしてこれ等の態度や事実が説明し得られようか。」(同、396頁)と述べている。

 

「使徒伝承」は「聖書」として文章化される以前に、生きた活動の形態で伝えられていたというのである。

 

以上が、カトリック側から見た「伝承(聖伝)」と「聖書」あるいは「教権」批判に対する反論である。

 

(2)「十二使徒団と教権」(ペテロに鍵を渡す)

 

キリストがその生存中、弟子の中から使徒となるべき人物を選び、育て、ご自分の使命が何なのか、ご自分の真意がどこにあるのかを言葉で、あるいは親しく交わり、あるいは行動の模範をもって教えられたのは事実である。

 

また、ペテロを中心とする12使徒団は、イエスの教えを他の人びとに伝える使命を受け、「彼らは宣教活動をもって、また殉教において頂点に達する生活態度と、礼拝などの共同で行う宗教生活上の諸制度をもって、またその啓示を文書化することによって、その使命を果たした。この十二使徒たちの指導下にある共同体の生命が『使徒伝承』である」(『私たちにとって聖書とは何なのか』、和田幹男著、女子パウロ会、78頁)ということである。

 

この使徒たちの後継者が司教と言われ、ペテロを中心とした全世界の司教団が受け継いでいると言うのである。これが、ペテロから継承した法王の特権と言われるものであり、「教会の教権」(教会伝承による)と「位階制」の出発点であるということになる。

 

だが、この「伝承」と「聖書」は、「教会が顔と顔をあわせてあるがままの神に相まみえるに至るまで」(同、76頁)、すなわち〝終末〟まで地上を旅するものなのであるというのである。

そして、メシヤに再会すれば、そこで一切が終焉しゅうえんするということ、そして再臨主との出会いから、主にならい、新しい生活が始まるということを意味する。つまり、救いのための「宗教生活上の諸制度」(礼拝、断食、巡礼、贖宥しょくゆうなど)が、全面的に見なおされ、新しく変わるというのである。

 

                

続きはコチラです。

 

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