ブルンナー「出会いの神学」Part9


キリスト教の教えに対する統一原理の見解サイトに掲載されている記事を紹介します。

キリスト教神学に対する統一原理の見解を解説しているサイトで、

今回はスイス出身で、プロテスタントの神学者ブルンナーの「出会いの神学」の連載9回目です。

 

下記はサイトより一部引用です。

                                

(B)「ブルンナーの『六つの命題』に対するバルトの反論」Emil Brunner4

 

バルトはブルンナーの「私の反対命題とその基礎づけ」(六つの命題)に対して下記のごとく反論している。

 

(1)ブルンナーの「神の像」の理解に対するバルトの批判について

 

バルトは、ブルンナーの「神のかたち」の解釈について、次のようにバルト式にまとめている。

 

「上述の人間の『啓示能力』という言葉は、ブルンナーに従えば(143頁以下 注:ブルンナー著『自然と恩寵』のページ数)、人間の持っている『神の像』を意味する。『人間の持っている神の像はその形式的側面からすると全然こわれていないということが、神の啓示に対する客観的可能性である』(172頁)。ブルンナーは力を入れてこう言う――被造物の中で人間を特に顕著なものとして区別するものは、人間における純粋に形式的なもの、すなわち『人間性』、主体性、理性的なもの、応答責任性のことであって、それが人間の信仰の可能性の前提であると共にまた罪を犯す可能性の前提でもある。こういう前提、すなわち人格的存在であるということは、罪によってなくならされてはいない。したがって、こういう形式的意味において人間の中にある本来の神の像はこわれていない。――事実上、こわれていないではないか。人間は罪人であっても、やはり人間であって、材木や丸太にはならない。しかし、それだからと言って人間の理性は神の本質を規定するのには、この世の中の何か外のものよりも、より適したものであるだろうか(170頁)。」(バルト著『ナイン!』196頁)

 

人間の理性に関して、バルトは上述のごとく、理性は「人間の信仰の可能性の前提である」と述べたブルンナーの見解を取り上げて批判している。しかしブルンナーは、そのようなバルトが批判する自然的理性だけでなく、啓示の光の中にある理性に関しても述べている。言い換えると、第一に、人間の理性に関して、神から離反している理性(人間の信仰の可能性の前提である)と、第二に、恩寵を受容した理性の二つを述べている。しかし、バルトは、前者のみを主張し、後者を否定する。

 

ところで、バルトは、ブルンナーの「神の像」の理解を「啓示能力」と言い換えている。それで、読者はバルトのいう「啓示能力」では、ブルンナーのいう「神の像」の意味がわからなくなる。したがって、バルトが「啓示能力」といって批判する時、ブルンナーのいう「神の像」、すなわち、人間は主体であり理性的存在であるということ、罪人であるとしても〝言語受容能力〟と〝応答責任性〟があり、人間は〝特殊な地位〟にあるということを想起しなければならない。

 

はじめに、恩寵について、バルトは「泳ぐ運動」の譬えをもって、次のようにブルンナーを批判する。

 

「水泳の達人によって瀕死ひんしから救われた人間が、自分は依然として人間であって鉛の塊でないという明白なことを、彼の『救われる能力』だと主張するなら、それはおかしくはないか、――と、全く偶然にもある人がブルンナーの書物のこの個所から受けた印象をはっきりと述べた。一人の人が自分も泳ぐ運動とでも言うようなことをすることによって、自分を救ってくれる人を助けたと言いうるのなら、それは救われうる能力だということができるだろうが、そう言えないなら、それはおかしい言葉である。ブルンナーはそういうことを考えることができるのだろうか。否、決してそうでないはずである。われわれは『自分自身で自分を救うために何もできない人間』ということを彼が語るのを聞いた。」(『ナイン!』196頁)

 

このように、バルトは、ブルンナーの「啓示能力」、すなわちブルンナーのいう「神の像」(人間は主体であり、理性的存在である。言語受容能力と応答責任性がある)を、自分も泳ぐ運動で、自分を救ってくれる人を助ける能力であると解釈する。それは、救われうる能力であるという譬えでもって表現し、「自分自身で自分を救うために何もできない人間である」という主張と矛盾するではないか、と批判するのである。

 

そして、バルトは、ブルンナーの「啓示能力」(応答責任性)を、さらに次のように批判する。

 

「あの『啓示能力』と言われているものは、啓示の中で人間に与えられる神の恩寵の働きに対して、人間がその仕事仲間として協力することであるかのように見えるような、そういう見方のことである。……ブルンナーは、宗教改革者たちの『聖霊のみによって――ただ恩寵のみによって』という主張を無条件的に認めることと少しも矛盾することなしに、しかもなおああいう自明なことについて一言だけでも言えるだろうか」(『ナイン!』197頁)と。

 

これは、従来からあるカトリックの協働きょうどう説に対する批判を、ブルンナーに適用したものである。すなわち、バルトの「恩寵のみ」という主張は、恩寵を受容する前提条件である「人間の決断や努力」(5%の責任分担)を否定する宗教改革者ルターの見解と同様のものである。

                            

続きはキリスト教の教えに対する統一原理の見解サイトに掲載されています。




coded by nessus
Posted by on 2014年10月6日. Filed under コラム, 教育・留学. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0. You can leave a response or trackback to this entry

One Response to ブルンナー「出会いの神学」Part9

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