ヨナ様の証で気がついた罪の解釈

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祝福家庭、現役バリバリ、これからも頑張ります。さんのブログより「ヨナ様の証しで気がついた罪の解釈」についてご紹介いたします。

ピクチャ 1

 

歴史的な2013年を新しく出発するために、神の日の前から清平に来て、その後、基元節までに、出来るだけの精誠をつくそうと韓国の親戚周りをしています。このブログも基元節で終了するつもりですが、書き忘れた事もあるので、今回は、「罪」にたいする解釈に関して、私が最近感じている内容に関して書いてみたいと思います。

あるとき、礼拝で、亨進様とヨナ様のメッセージを聞いている時に、私は、初めて、ヨナ様の語られている罪というレベルを少しばかり認識する事ができた。

 

著者はヨナ様が礼拝で語られる証しを聞いて、「罪の解釈」と「基元節の価値」に対して再考し、深い気づきを得るようになったといいます。

 

ヨナ様の証を聞きながら、私は、罪という問題をもう一度、考えるようになった。要するに、罪とは、神様との関係が切れてしまったことでもある。つまり、神様の立場で考えることができない事すらも、それは、ヨナ様の中では、罪であり、罪人であるという認識なのである。

お父様は、イエス様が、「我が神、我が神、なぜ、私をお見捨てになったのですか?」という言葉は、語ってはいけなかったと言われたことがある。お父様からみれば、それさえも罪なのであろう。こうした観点から見ると、私は、基元節の位置付けは、恐ろしく高い場所に位置していると思われて仕方ないのである。

 

詳しくは祝福家庭バリバリ伝説-「あんた、ホントにバリバリやね~」と神様から言われたい症候群をご覧ください。

コメント

  1. 今回の本旨とはやや違う部類のお話しかもしれませんが。聖書文化の希薄な日本ではほとんどの方が誤解されている箇所がございますので、僭越ながら下記申し上げたく存じます。

    「我が神、どうして私をお見捨てになったのですか?」という箇所についてです。
    これは十字架上でイエス様が口にされた言葉の一部に過ぎません。
    正確にはイエス様は詩篇第22編1節〜第31編5節を暗誦されたのです。
    ダビデの歌です。ぜひ一度お読み下さい。

    9編にも及ぶ長い旧約聖書のみ言葉を十字架上で暗誦された精神力とその教養力。
    当時の初代クリスチャン、つまりユダヤ人には聖書は生涯繰り返し訓読するものなのでその一部を表記すれば聖書のあの箇所を話してるのだとすぐわかります。

    その時どういうご心境であったかは我々には計り知ることは出来ません。

    ただ、たしか「アメリカに対する神の希望」だと思いますが、お父様もイエス様に対する悲劇的な誤解がされていると訴えられてます。イエス様は命乞いをしたのではない。ましてやイエス様は神の子であると。
    詩篇を暗誦してイエス様は絶命されます。
    暗誦箇所の最後、詩篇第31編5節はこうして終わります。
    「わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。」

  2. eric より:

    統一神学卒業の方が言われるとうりです。イエス様は人間的弱さからの御言葉ではなく、私を地上で失われると神様の苦労された復帰摂理が台無しになり 悲惨な蕩減の道が続くことの神の悲しみの立場を思い 我を見捨てる他に道はないのでしょうかと訴えられたのでした。それゆえ「わが思いにあらず 神のみこころのままになし給え」と結ばれたのです。どこまでも神の事情の立場に立って祈られています。
    ヨナ様は指摘されました「罪とは神の立場に立つことができないことである!」 私は はっと我に帰り 感動しました。本当にそのとうりです。ルーシェル天使長の最大の罪はまさにそこから出発しています。神の願う立場に立つことができない、そして神から距離を置いて自己中心に陥り エバを騙し罪を犯していくわけです。          ヨナ様 たいへんありがとうございます。

  3. […] Iヨナ様の証で気がついた罪の解釈 II王権時代の歩き方ー氏族メシア・南北統一・平和国連 […]

  4. ttakako より:

    素晴らしいレベルの投稿ですね。聖書研究会を開催してほしいくらいです。

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