カルトと宗教の差異は何か?


 10月18日、米国統一教会の公式サイトに掲載された「カルトと宗教の差異は何か?」

Cult vs. Religion: What’s the Difference? )という論文を翻訳して掲載します。

 

 

 

 

 

カルトと宗教の差異は何か? 

 

 モルモン教が明示したように、決定的な差異は、ある信仰が時間という試練を越えたか否かだ。

 

 サム・フレイシャッカ

 

 リック・ペリー氏(注:現テキサス州知事、次期大統領選に立候補)を支持した牧師は、モルモン教を「カルト」と呼んだ。これは間違いだろうか。カルトと宗教の違いは何か、答えは簡単ではない。大概の人は自明だと思っているに違いない。例えばサイエントロジーと、文鮮明師の統一教会はカルトではないか。ユダヤ教とキリスト教は間違いなく宗教だといった具合に。

 

 しかし実際問題として、初期キリスト教はユダヤ人とローマ人からカルトと見られていたし、イスラムは中世のキリスト教会にとって、長い間カルトに過ぎなかった。当然、福音派からクエーカー教徒までプロテスタント諸教団は、他のキリスト教徒からカルトと見なされてきた。

 

 さらに「カルト」の定義を、カリスマ的で風変わりな指導者が、自分は神界に直通していると称し、既成宗教から見れば異端的でデタラメにしか見えない教理を広めるもの、と規定すれば、キリスト教もイスラムも仏教も創始期にはカルトだったし、ユダヤ教もそうだった。

 

 私が言いたいのは、カルトと宗教の実質的な違いは約100年という時間の流れだということだ。つまりカルトと見られ、本当の宗教に危険きわまりない脅威と見なされた信仰も、数世代を持ちこたえれば「宗教」と呼ばれるようになると言うことだ。

 

 こんなことを言えば、ふざけるな、皮肉じゃないか、と聞こえるかも知れない。宗教に失礼な言い方かも知れないが、そんなつもりではない。と言うのも、如何に生きるかについての特定の見方を、数世代も維持できた団体は十分尊敬に値するのであって、それは一世代で消え去っていくような信仰集団とは違うと言うことだ。

 

 一番分かりやすいことを言えば、数世代も存続できる団体は、しばしばカルトが私達を困惑させる、自滅的、抑圧的あるいは反社会的な行いをすることはない。大量自殺などあり得ないし、極めて不健全な行いを教唆することもないだろう。信徒達を抑圧したり部外者を攻撃すれば、自ら解体の憂き目を見るか、当局の厳重な監視に置かれることになろう。ある団体が宗教としての地歩を固める過程で、神のみ旨や人生の価値に関する共通のビジョンを、社会の道徳に昇華させていくしかないのだ。

 

 世代を越えて残るためには、次世代を教えて育てる機関も作らなければならない。だが、信仰の内容が畏怖感や違和感を与えていれば、若い世代の支持を得られず、とどのつまり、若者達は異常な体験に反発して団体から離れていくだろう。その信仰共同体の中に生まれた若者達も、両親とは異なった形で、その信仰について納得する必要があるからだ。そのような団体は教育スタッフを啓発できず、その教育機関は組織や人間関係の問題を調停できないだろう。

 

 そして最後に、世代を越えて生き残る団体は通常、それ自体の宗教的メッセージを回りの社会一般の通念や行動と調整をとり、信者達は世間で職を得たり、人付き合いや経済活動を通じて、市民としての務めも果たす必要が出てくるものだ。こうして第一世代の風変わりな主張や実践は和らげられたり再解釈されていくのだ。

 

 言うまでもなく、これは正にモルモン教が通ってきたことだ。今では大方のアメリカ人にとってモルモン教は明らかに宗教であってカルトではない。カルト視された日々は過去のもの、少なくとも様々な宗教が互いに尊重し合う傾向にある今日では昔のことだ。ただ一部の伝統的なキリスト教徒が、神学上の理由から依然として承服できないのは分からないことではない。だが知ってほしいことは神学の観点から言えば、ユダヤ人にとって大半のキリスト教徒は異端か異教徒の如くであり、バハイ教徒も異教徒だ。キリスト教徒はムスリムにとって偶像崇拝者に見えるだろうし、仏教徒とヒンズー教徒は互いをでたらめな連中だと思っている。そうした見解の違いが宗教戦争の要因になった。米国が偉大なのは、異なる宗教の信徒達が神学的に鋭い違いを持ちながら、同じ市民として平和的に尊重し合って暮らせる社会を可能にしたことだ。

 

 同じ社会の市民として全ての面で善良かつ分別のある人々を、「カルト」に属しているということで非難攻撃するとすれば、米国が達成した素晴らしい業績をなし崩しにするようなものだ。

 

(注)サム・フレイシャッカ氏の了解で(米国統一教会の公式サイトに)転載。同氏はシカゴ大学(イリノイ州)哲学教授。著書に「天啓と世界のあり方」。

 

 本論文についての米国統一教会広報チームの短評

 

 統一教会の元教会長で、統一神学校の元学長タイラー・ヘンドリック博士は、次のように批評している。「この論文は素晴らしい。カルトから宗教への移行、というテーマは魅力的なものだ。フレイシャッカ教授の指摘には全面的に賛成だが、付け加えるなら、社会が宗教として容認した団体は、社会に開かれたネットワークを通じて部外者を信者として招き入れる度量がある、という点だ。団体の拡大は、信者以外の人々を惹きつけ同化させるに足る有益性と問題解決力があれば、大幅に促されるだろう」

 

 ロドニー・スターク(注:現在の米国を代表する宗教社会学者)の著作、「キリスト教の興隆(The Rise of Christianity)」なども大変に示唆深い。それはキリスト教がローマ帝国内で貧者や弱者、女性の地位について、非常に目に見える形で貢献していたことを教えてくれる。

 

 統一教会はカルトか、それとも世界宗教の表舞台に登場した新顔なのか。それを問いかけ、答えを探してみる価値はあるはずだ。ここで一つの計算を提示してみたい。統一教会とその関連団体は、まだ60歳にならない新しい宗教運動だ。統一教会が主催する祝福結婚に参加した第二世代の大半は未だ20代、第三世代は子供達だ。そうであれば我々統一教会は、時間の試練にパスしていないのだろうか。

 

 次の事実も、統一教会が畏怖される理由のない宗教であることを示唆している。統一神学校は高名な米国神学校協会の準会員だ。統一教会信者の中から、(創設者の子弟や孫を含めて)ハーバード、コロンビア、コーネル、その他のアイビーリーグの大学や、カリフォルニア大学(バークレイ)等の有力な州立大学に続々と入学している。統一教徒の第二世代から50人以上が、イラクとアフガニスタンの戦場で軍務に就いてきたし、少なくとも8人の統一教徒の若者が、ウエストポイントなどの士官学校を卒業した。数人の教会信者は州議会の選良として務めた。これらの事実にも関わらず、統一教会は「自滅的、抑圧的あるいは反社会的な行い」を懸念されなければならない団体なのだろうか。そんなはずはない。

 

ダグラス・バートン氏(注:米国統一教会広報部長)の寄稿

 

Posted by on 2011年11月10日. Filed under 未分類. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0. You can leave a response or trackback to this entry

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